年間の主日  2012年 B年 23〜34




年間の主日

B年

第23〜第34

(王であるキりスト)


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王であるキリスト


          年間第23主日B年       201299日    グイノ・ジェラール神父

       イザヤ35:4-7    ヤコブ21-5     マルコ731-37

    エスは、旧約聖書の全ての預言を実現する救い主です。 預言者たちが告げ知らせたように、神の僕としてイエスは病人と盲人を癒し、耳の聞こえない人は聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにします。 どこへ行っても、ご自分の言葉と行いによってイエスは、神の救いと憐れみを表します。 昔、イエスが行ったことをすべて、今日、教会の秘跡を通して行い続けています。 なぜなら、教会はキリストの体で、人を癒し救う神の憐れみの目に見えるしるしです。

    今日イエスは、偶像を礼拝している異邦人の国に滞在しています。 聖書全体は「人間に造られたこの偶像を」あざ笑っています。 「偶像は口があっても話せず、目があっても見えない。 耳があっても 聞こえず、鼻があっても かぐことができない。 手があっても つかめず、足があっても 歩けず、喉があっても 声を出せない。」(詩編1154-7)偶像を礼拝する人は、この偶像のようになると聖書が教えています。 と言うのは、偶像礼拝をする人が 神の言葉に対して耳の聞こえない、口のきけない者となり、もはや祈ることも賛美することも出来ません。 神と共に親しい関係を持たない人は、他の人々と対話することが出来ません。 イエスの傍に連れて来られた人は、このような人でした。 神以外に、たとえば、自分たちの業の内に希望を置く時、私たちも耳が聞こえず、舌の回らない人のようになるのです。

    偶像が全く出来ないことをイエスは連れて来られた人に対して実現します。 イエスはこの人の手をとって彼に触れ、話し、そして「開け」と言います。 全く聞こえないこの人を新たにし、造り直すためにイエスは、彼に創造的な言葉を聞かせます。 特にイエスを通して神が身体的に人の病を取ることを理解させる為にイエスが奇妙な動作を行います。 耳の中に入れた指や 舌の上に乗せた唾は、人間が神ご自身の手で創られたことと、人間が神の命の息吹を受けたことをも 癒しを受けている人に思い起こさせる目的を持っています。 聖書によれば唾は、呼吸の象徴です。

    耳が聞こえず舌の回らない人にイエスは、決して「聞け」とか「話せ」とか「元気になれ」などと言いません。 むしろ、イエスは「開け」と言います。 この言葉は、この人が墓のようになった孤独の中に閉じこもっていたことを表しています。 そこでキリストの言葉が、彼を解放して、自由な人とします。 この異邦人の舌に自分の唾を置くことによって、イエスは彼の口の中に自分の御言葉を入れます。 そして癒された人が、自分の周りに真の神の憐れみを宣べ伝える責任と使命を受けます。 このようにキリストは 神と人間、そして人間同士お互いに必要な繋がりを立て直します。

    人間同士お互いに話し合い 聞き合う為に、キリストにおける信仰は全てを尽くすようにさせます。 たとえばマルコの時代に、ユダヤ人が異邦人と仲良く話すことは、考えられないことでした。 カイサリアでペトロが百人隊長コルネリウスと出会ったので、エルサレムに残っていた使徒たちはペトロを厳しく咎めました。 マルコが今日の箇所を書いた目的とは、異邦人と個人的に出会うことを始めた方は、イエス自身だったと言うことを初代教会の信者たちに思い起こすためです。 キリストの弟子たちと初代教会は、兄弟姉妹としてキリスト者となった異邦人たちを歓迎することがどれほど難しかったか、今日生きている私たちには、なかなか理解できないでしょう!

    イエスは「開け」と私たちにも言います。 私たちはいつも他人に対して、心の開かれた人となる必要があります。 固く閉じている私たちの偏見と赦しの拒否の扉を大きく開く必要があります。 ですから、避けている人を兄弟姉妹として新たに見るように私たちの目からうろこを落としてから、目を開きましょう。 本当の兄弟的な繋がりを新たに結び合うように、イライラさせる人々の声を平常心で聞きましょう。 全ての人と差別なしに分かち合うことを学ぶために 私たちの両手を開きましょう。 意思を持って私たちが避けた人々や 離れて来た人々に もう一度近い者とするように、自分の心の中にキリストの勇気を持ちましょう。 周りにいる人々と共に、賛美と感謝を捧げるために 象牙の塔に引きこもった態度を止めて 喜びの内に彼らを迎えましょう。 アーメン。



          年間第24主日B年   2012916     グイノ・ジェラール神父

        イザヤ50,5-9a   ヤコブ2,14-18   マルコ8,27-35

   イエスの質問に答えて、弟子たちは、一般の人々がイエスについて思い込んでいる意見を伝えます。 人々がイエスについて下す判断は、彼らに何の義務も負わせないでしょう。 多分この人々は、何かを期待しています、例えば良い日々が来ると言う希望です。 ところで、ペトロの個人的な答えが いくら正しく的確であっても、彼は言われたことの内容が理解出来ずに、キリストに反対するので ペトロはイエスの猛烈な咎めを引き寄せます。 イエスは全てにおいて自信を持って生きている人です。 自分が誰であるかを知っていますし、自分の使命の目的も分かっていますので、この使命が 失敗と苦しみの内に実現される事を弟子たちに啓示しました。

   善意を持ってペトロは イエスが預言した近い危険な未来から彼を守ろうとしています。それは痛切な失敗であり、考えられない苦しみであり、そして不当な根拠のない死です。 むしろイエスは、神の内に自分の信頼をすべて委ねていますから、自分自身を守ることを考えません。 イエスはご自分が 預言者イザヤが告げ知らせた「苦しみの僕」である事を良く知っています。 そのために、イエスははっきりと次のように断言します「自分の命を救いたい人は、それを失う。自分の命を失う人は、それを救う」と。

     確かに、イエスは神が約束されたメシアです。 しかしイエスは メシアとしてローマ人の支配からイスラエルの民を解放するために来られたのではありません。 また、人々が望んでいるように、イエスは王としてイスラエルの民を治めるためには 来られませんでした。 イエスは自分の命を捧げながら 全人類を救うために、メシアとして遣わされました。 結局、御自分の死と復活によって、イエスは全世界を新たにします。 そう言う訳で、イエスは自分について、決して「私はメシアだ」と言わず、むしろ自分を「人の子だ」と呼びます。 確かにイエスは「人の子」として イザヤが預言した「十字架に付けられたメシア」であると同時に、預言者ダニエルとエゼキエルが告げ知らせた「世の審判者」でもあります。

    ペトロとイエスの弟子たちは、キリストが「神の子」であると同意して、それを平気で宣言出来ます。 しかし、自分が公に死刑を受けると言われたメシアの後に従うことは彼らは納得できません。 確かにイエスを見て群衆は、驚きながら感嘆します。 「この方のなさったことはすべて素晴らしい」(マルコ7,37)と人々は言っています。 この状態が急に変わると言うことを弟子たちは考えられません。 しかしイエスの方が現実主義者です。 イエスは、近寄って来る危険、段々と姿を現わす妬みを感じていました。 そして大祭司と最高法院で 既にイエスを殺すことが決められているのをよく知っていました。 イエスにとって 弟子たちが抱いている高い評判や権力の幻から 彼らを目覚めさせる時が来たのです。 そこでイエスは「神のメシアは、人間の暴力の犠牲者になる事によって、その残虐に打ち勝つ」と言う事を弟子たちに理解させようとします。 受難と復活は密接に結ばれていますから。

   人間として完全に生きようとするキリストにとっては、人々を救うために自分の命を失う事は避けられない使命です。自分の人生を全うするには 具体的に一体何をしたら良いのでしょうか? 聖ヤコブによれば、それはキリストに従いながら、人々の苦難、飢え、渇き、貧しさを自分のものとすることです。 ヤコブにとって、自分の命を失うこと、つまり自分の命を与えることは これこそ自分の人生を全うする事です。 このようにして 人はキリストを真似ることが出来ると同時に、キリストの栄光に与ります。 この生き方を拒むのは、サタンの味方になる事だとイエスは忠告します。 サタンと言う単語は、「前進を阻止する]と言う意味です。 キリストの内に信仰を置く人は、どうしても自分を捨て、自分を放棄して、自分を捧げると言う信頼の道をイエスと共に歩まなければなりません。 弟子たちはイエスに従い、決してキリストを乗り越えて、彼の歩みを阻止するようにしてはいけません。 これこそがペトロの過ちでした。

    十字架を背負うのは簡単ではありません。 私たちは皆、幸福、成功、便利性の追求を望んでいますから、苦しみと失敗を考えるだけで、私たちは恐怖に陥るのです。 このことから私たちは ペトロの反応をよく理解出来るでしょう。 しかし、私たちが怖れを乗り越えるように イエスは強調しています。 「私に従いなさい、私を信じなさい、私から自分の命を人々のために捧げる事を学びなさい」と。 またイエスは 次のように言います。 「だれもわたしから命を奪い取る事は出来ません、わたしは自分でそれを捨てます」(ヨハネ10,18)あなた方も「同じように行うようにしなさい」と。 もし私たちが盲目的な信頼をキリストの内に置けるならば、私たちを囲んでいる人々を毎日豊かにする事が出来るでしょう。 そして私たちは知っています、この生き方こそが、愛の完成と永遠の命に導くことを。「福音のために命を失う者は、それを救うのです。」 本当にその人は幸いです。 アーメン。



          年間第25主日B年    2012923日    グイノ・ジェラール神父

             知恵の書2,12 17-20  ヤコブ3,16-4,3  マルコ9,30-37

    誰が一番ですか? 個人的にこの質問に答えるなら、一番の人は 非常に賢くて、とても強くて、裕福で、才能に恵まれた人です。 小学校の時から 社会的や政治的や職業上の地位で見れば、人々は一番偉い人をこのように判断します。 国際的に見れば 同じことが言えるでしょう。 経済的、金銭的、軍事的に最も強い国が、第一の国として人々に認められています。 また、オリンピックのゲームでは、金メダルを得る人が一番の人だと思われています。

    しかし、第一の人は全ての人の僕になり、自分を最後とする人だ、とイエスはぶっきらぼうに言いました。 幻からご自分の弟子たちを目覚めさせるために、イエスはわざと今日もまた、ご自分の受難について語ります。 イエスの弟子達は、無関心で自分たちの将来を保障する事しか考えないからです。 イエスが王国を治める時に、誰が彼の傍の第一の場所に座るかについて 弟子達は口論しています。 先週イエスは「失う事は 勝つ事だ」、「死ぬことは生きる事だ」と言いました。 今日イエスは「最も小さい人が偉いのだ」、「最後の人は一番だ」と加えます。 このようにイエスは、私たちの考え方をひっくり返そうとします。

    2000年以上のキリスト教の歴史があったにも関わらず、キリストが言われた言葉は、今も尚、私たちを面食らわせます。 使徒ヤコブは書いた手紙を通して、力強く次の事を説明します。 私たちの考え方がひっくり返されない限り、私たちは不幸に必ず出会います。 「あなた方は 欲しても得られず、熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり、戦ったりします。 願い求めても与えられないのは、自分の欲望を満足させる為に 悪い動機で求めているからです。」と、ヤコブは厳しく批判します。 彼は「あなた方は、自分の欲望を満たすために、一番になりたい、第一の場所を求めている」と言うことも出来たでしょう。 国際的な関係での面でも、他の人々との関係のレベルでも、使徒ヤコブの言葉は、現代でも真実であることを認めましょう。

    望んでいても いなくても、一番になりたい人は、どうしても他の人々を自分の下に置かなければなりません。 他人を支配する欲望とねたみは、いつもけんかと分裂の源です。 最後の人を最初の人にする、というキリストの教えと知恵は、人々にとっては愚かなものとして認められるのです。 しかし愛は自己放棄のうちだけに、具体的に実現されています。 キリストは御自分が教えたことを全て実現した、と感嘆しながらパウロは説明します。 「キリストは豊かでありながら、私たちのために貧しくなりました。」(2コリント8,9) 「キリストは、神の身分でありながら、神としてのあり方に固執せず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、十字架の死に至るまで、へりくだって、従う者となられました」(フィリピ2,6-7)。

    洗礼の秘跡によって私たちは、キリストの死と復活に結ばれました。 私たちの存在は、イエスの存在と厳密に一致しています。 もし、私たちが キリストの弟子であるなら、純粋に心を尽くして私たちは 人々に奉仕する為に、一番早く動力する人になるはずです。 しかし僕に与えられた最後の場所で、人々の世話をしなければなりません。 私たちに提案されている可能性 即ちイエスの謙遜を真似る可能性のうちに、キリスト者の誇りがあります。 イエスは、子供を模範として示す事で 「信頼、奉仕、謙遜の道」を歩むように 私たちを誘っています。 教育された子供は、決して父、あるいは母を押しのけて、自分の方が偉い立場を取りません。子供は出来るだけ、両親の愛の内に留まるように努力します。 子供は、両親の愛の内にしか成長出来ません。 このように全ての人の世話をしながら、私たちは神の愛の内に生き、成長し、留まるように招かれているのです。

    他人を自分よりも先にすることによって、私たちは彼らを愛している事を具体的に示します。 同時に、他人が私たちに一番の立場を与える事で、私たちを愛している事を表わします。 これこそ、私たちに最初の場所を与えようとしている 神の愛の神秘です。 私たちは神の愛する子供であり、聖霊は、私たちの心の内で絶えず「アッバ 父よ」と叫んでいます(ガラテヤ4,6)。 ですから「私たちが成熟した大人、即ち キリストの内に満ちているもので満たされて、その背丈にまで達する事が出来るように」(エフェソ4,13)神の愛の内に、子供のように留まりましょう。 聖霊が 人々の世話のために心と体を尽くしている私たちを幸せな者としますように。 そして、神が御自分の愛の内に へりくだって謙遜になった私たちを憩わせますように。 アーメン。



        年間第26主日B年      2012930 グイノ・ジェラール神父

          民数11,23-29   ヤコブ5,1-6  マルコ9,38-43 45 47-48

    神の民が全て預言者になればよいとモーゼは望んでいます。 愛の火が全地を燃やせばよいとイエスは望んでいます。 人生の建前、洒落た服、体の飾りを見せる人々は使徒ヤコブの厳しい裁きを受けています。 各キリスト者が外面的な姿よりも心の豊かさを見せるように使徒ヤコブは望んでいます。 私たちの心に注がれた神の愛以外、私たちは値打ちのあるものを持ちません。 この愛で全世界を燃え立たせることは私たちの使命です。 なぜなら罪、嫉妬、無関心、自己愛は自分の回りにある物事を冷たく固まらせ麻痺させますから。

    第一朗読によれば、モーゼによって選ばれた70人の人が「預言状態になったが、それは長く続かなかった」そうです。 なぜでしょう? それはこの70人の人々が自分のうちにあった神の現存に対して、注意深い態度を保たなかったからです。 それに反して、遅れて来たエルダドとメダドは 自分のうちにある神の現存を大切にしたので、長く預言し続けました。 この二人を見た人々は深いみを持ち、若いヨシュアが彼らの不満の代弁者となりました。 そこでモーゼは言いました。 「どうして妬む心を起こしているのか?  わたしは主の民全てが預言者になればよいと切望しています。」 言い換えれば、「自分たちの心の中に燃える愛を皆が具体的に示して欲しいと、どんなに望んでいることか」と、モーゼは言いたかったのです。

    イエスの愛する弟子ヨハネは、若いヨシュアを真似て イエスの名によって奇跡を行った人を止めさせようとしました。 「聖霊は思いのままに吹く」とイエスは言いました。神の愛は、キリスト者だけのものではなく、愛によって神に造られた全ての人のものです。 昔、預言者ヨエルは 神が全ての人の上にご自分の霊を注ぐ(ヨエル3,1-2)と宣べました。 同様に聖パウロも度々「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでいる」(1テモテ2,4)と思い起こします。

   イエスの名によって受けた洗礼が、神の愛の偉大さ、高さ、深さの前に私たちを置くと同時に、人々が受けるべき尊敬の前にも私たちを置くのです。私たちの心の親密さのうちに、神の愛が成長しながら 私たちをキリストに似る者とします。 残念ながら、私たちの言葉と行いの脈絡のなさは、他人に対して躓きの石となってしまいます。 キリスト者の心の中に 蛇のようにとぐろを巻いている妬み、悪口、軽蔑は、その人をサタンの仲間や弟子とすることを 私たちはみんな良く知っています。 その結果、その人のうちに燃えていた愛の火が変化して、彼を非難しそして焼き尽くす地獄の火となると 使徒ヤコブが説明します。

    そういう訳で、使徒ヤコブも、イエスも、兄弟に損害を与え、兄弟を躓かせる人にたいする 容赦のない態度を示します。 と言うのは、躓かせることは 人が全うすることを防げ、その人を軽んじることです。 躓きとなり、罪に陥らせる手と足を切り落とす事、また自分の目をえぐり出すことよりも、大勢の人にとって自分の舌を切り落とすことの方が良いと思います。みによる偽証,真理の姿を借りる偽り、悪口とあざけり、これこそは 弱い人の評判を汚し、その人にとって 避けられない躓きになります。 使徒ヤコブも、イエスも同意して、神との友情の関係が続くかどうか、この状態から解ると語っています。 兄弟関係を切ることは、神との関係をも切ることです。 従って、神から離れると永遠の命を失う危険性があります。

   「私たちに逆らわない者は、わたしたちの味方だ」とキリストは言いました。 兄弟に敵対する人は キリストを敵とします。 人々に対して出しゃばって悪いことを言う前に、私たちは 今申し上げた真理を思い出せばよいと思います。 信仰は 他人を歓迎し理解しながら、人に対して真実の親切さを示すように 私たちを招いています。 生涯に渡ってキリストは、この態度の模範を良く示しました。 ですから、全ての人のうちに愛する兄弟、尊敬する兄弟、必要ならば助ける兄弟を見出すように キリストから学びましょう。 このようにして私たちは必ず「この時代のための預言者」となります。 ですから、キリストの名によって、モーゼの希望を実現しましょう。 互いの愛のうちに、皆一緒に預言者の民となりましょう。 アーメン。


         年間第27主日B年    2012107日    グイノ・ジェラル神父

            創世記 2,18-24  ヘブライ2,9-11  マルコ10,2-16

   不思議な眠りから目覚めたアダムは、エバのうちに「自分の肉の肉、骨の骨」を発見します。 洗礼によってキリストに結ばれた私たちは、一つの体となるためにキリストと共に死に復活しました。 またヘブライ人の手紙が説明するように、イエスによって聖とされた私たちは、一つの源から出て来ました。 言い換えれば 私たちはキリストの種族です。 なぜなら私たちは「彼の肉の肉、骨の骨」であり、更にキリストの兄弟でもあります(参照ヘブライ2,11-12)。 私たちはキリストの体を頂く度に、今 申し上げた事について証しします。 そう言う訳で 神が結ばれた者を人が離さないように、そしてキリストに近寄りたい者を神から引き離さないように、イエスは願っています。  神が望まれるものは一致であり、分裂ではありません。

    罠のある質問によって、ファリサイ派の人々は、イエスの教えがモーゼの教えと敵対し 内容が矛盾している事を公に示そうとします。 彼らの目的は、民とキリストを分裂させる事です。 言い換えれば、ファリサイ派の人々は、自分たちはモーゼの味方であるが、イエスはそうではない事を群衆に見せたいからです。 彼らへのイエスの答えは、単純で明快です。 この答えは、神のみ旨に相応しい事は何であるかを理解させます。 そしてこの答えによって、律法の教えを超えるようにイエスは人々を招きます。 愛なしで律法を行う事、まして隣人を傷つける事は神のみ旨ではないと、キリストははっきり断言します。 モーセの時代からイスラエルの民の長い歴史を通して、神がなさったようにイエスはファリサイ派の人たちの頑なな心を強く咎めます。 鈍感になった心は、いつも分裂、差別、軽蔑までに人を引きずり込みます。 聖書の全てのページが人間の頑なな心が、どれ程分裂を生み出すかをよく教えています。

   例えば アダムはエバを妻としてではなくて、「自分に合う助ける者」として見ています。アブラハム,ヤコブ,ダビデ,ソロモンは多妻の男であり、彼らの内縁の妻を奴隷として使います。 モーゼは動物のよりも下のレベルに女の立場を置きます。 聖書によれば、夫だけが離婚が出来るのです。 妻は沢山の義務がありますが、何の権利も与えられていません。 これに対して、イエスはわざと「妻は離婚する権利がある」と宣言します。 このようにファリサイ派の人たちに答える事によって、イエスは最も大切な事は律法を守る事ではなく、人々の間の関係を大切にする事だと教えています。 肝心なのは愛です。 全人類に対する神の愛、お互いに示される愛、そして結婚の結びによって一致したい人々の愛です。

  「神は御自分にかたどって人を創造された。 男と女に創造された」(創世記1,27)と創世記の第一の章が伝えています。 ここで大切な事が教えられています。 一人の人間として 男ではなく女でもなく、むしろカップルが神の似姿です。 この事を考えると、離婚を拒否するキリストの答えをよく理解できるでしょう。 夫婦の最初の使命は神の神秘を示す事です。 ここで夫婦になった人の責任と偉大さがあります。 結婚した人々は、計り知れない「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3,18)を啓示する使命を持っています。 三位一体の神と同様に愛は三次元です。神は愛であり、愛の泉でもあります。 お互いに愛し合っている男と女は、新しい関係と計画に与りますが、そこに神がおられる事を彼らは多分知らないでしょう。 夫と妻の間に、彼らを永遠に結び合う神ご自身が必ずおられます。 そして神から委ねられた命の貴重な賜物を、彼らは管理するために持っています。 このように夫婦は神の命を持ち、神と永遠の契約に結ばれています。 そう言う訳で 聖パウロはいつも、キリストを花婿とし、教会を花嫁として例えています。 従って パウロは神と私たちとの一致を結婚式と比較します。

   避けられない人間の争いや夫婦喧嘩を超えて、私たちは他人を信頼しなければなりません。 丁度 神が私たちの自由を信頼するのと同じです。 神が忠実であるからこそ、私たちも忠実でなければなりません。 神の似姿で創られた私たちは、神が生み出す一致を反映しなければなりません。 神の愛する子どもとして、私たちは父と子と聖霊の愛に生きるように召されています。 このように神の愛で強められた私たちは、ありのままに互いを互いに受け入れ合う事ができ、愛の完成に皆一緒にたどり着く事ができるのです。  アーメン。



      年間第28主日B年    20121014日    グイノ・ジェラール神父

         知恵の書7,7-11  ヘブライ人の手紙4,12-13  マルコ10,17-30

   「神の言葉はどんな諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通している。」 「あなた自身の心を剣で貫かれる」とエルサレムのシメオンは、マリアに告げました。 確かに、剣として神のみ言葉がマリアの体に入り込んでから、彼女の心も魂も貫かれました。 生涯に渡って神の言葉によって生きたマリアは、キリストの模範的な弟子となりました。 今日、イエスが語る言葉は私たちの人生のうちに深い傷を残す筈です。 神のみ言葉を自分の身に付けない限り、私たちはキリスト者だとは言えないからです。

   「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか?」これはイエスの足元にひれ伏していた青年の切なる願いでした。 永遠の命を得ることは、全ての人の望みです。 しかし、イエスが青年に返した答えは、鋭利な剣のようにこの答えは私たちを当惑させています。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 それからわたしに従いなさい」と言うまでもなくこの言葉は非常に実現しにくいことです。ところで、イエスはわざとご自分の言葉の剣を私たちの内に深く刺し込み、開いた傷をもっと大きくしたいので、次の考えられない言葉を加えました。 「たくさんの物を持っている人が、神の国に入ることは、なんと難しいことか」と。 私たちは皆、引き離したくない物をたくさん持っているので、キリストの弟子たちの反応がよく分かるでしょう。 「それでは、誰が救われるのだろうか?」と。 イエスは「その通りだ」と言いませんが、しかし、自分が言われた言葉を繰り返して、それをはっきりと断言します。 「人間にできることではないが、神には出できる。 神は何でもできるからだ」と。 神だけが人を救うことができ、神には不可能が全くありません。

   金持ちであろうとなかろうと、私たちの人生が物質的なもので覆われ過ぎていることを正直に認めましょう。 コマーシャルは益々物を買うように、引っ切り無しに私たちを誘いますが、結局 自分が買った物を あまり使わないでしょう。  人が所有する物から、幸せになることは出来ません。 むしろ、神の内に置いたものや他者に与えたものから幸せが来る、とイエスは私たちに教えています。他者に向かって生きる事によって、つまり自分の持ち物を他の人と分かち合うことによって、私たちは天にたくさんの宝物を積みます。 物質的な物は、いつも人を自分の中に閉じ込めさせます。 「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われるイエスは、私たちが貧乏になる事を決して望みません。 むしろ、神と人々から私たちを遠ざける物事に対して、私たちが自由であるように、イエスは切望しています。 キリストが私たちの為に望んでいる豊かさとは、私たちが本当の絆を持つ事です。 実際に貧しくなるためではなく、神と隣人に自分の心を開くために、自分の持っている物を捨て、またその持っている物と必要な距離を置くことです。

   私たちの生き方を変えるために「知恵の書」とイエスは、私たちの目を開き 助けを与えています。 「金も砂粒に過ぎず、銀も泥に等しい」と「知恵の書」が教えます。人は全てを所有することが出来ない事をイエスも思い起こさせます。 走りながらキリストの方へ来た青年は、模範的な生き方を送っています。 イエスは、深い愛を持って彼を見つめました。 この青年は既にたくさんの物を持っています。 しかしもっと欲しい、そして出来れば直ぐに。 全てを所有する誘惑からこの青年を救う為に、イエスはわざと彼の人生に深い切断をするように彼を招きます。 この切断のお陰で、この青年はキリストに従って他の人と出会って、福音を述べ伝えることが出来るからです。 鋭利な剣のように辛らつなキリストの言葉は「一つだけ欠けているものを所有するように」と私たちを強く急かしながら誘います。 それを実現するために、私たちは自分の内にある余分な物を切り離してから、すべての物事に対して自由になるように努力しなければなりません。

   私たちにとっては、それがとても無理だと思われます。 しかし、イエスは私たちを安心させます。「人間にできることではないが、神には出できます」と。 誰も自分の力によって天の国に入る事が出来ません。 私たちの為に死ぬほど、限りなく愛して下さる神だけが、簡単にご自分の国に私たちを入らせます。 ところで、自分の上に注がれたイエスの慈しみ深い眼差しにも関わらず、福音の青年がキリストに従う事が出来ずに、とても寂しく去りました。 神は限りのない愛で私たちを皆包んでいます。神のみ旨を行わない時、もし私たちが寂しくならないとしたら、やはり神と私たちの間に乗り越えにくい、たくさんの邪魔ものがある証拠です。 また、私たちの信仰生活は、愛の完成にまだ辿り着いていない証拠でもあります。

    もし、鋭利な剣のように神の言葉が私たち自身を貫き、開いた傷に刺し込んだままに残らないのなら、私にとっては神の招きに答えることは、とても難しくなります。 キリストに従う為に非の打ち所の無い人になる必要はありません。 しかし、キリストが提案する知恵を自分の身につける必要があります。 なぜなら、神の知恵は私たちの欲望をすべて追い払うからです。 私たちは皆、神が私たちの為に望む事を自分の望みとするように、学ばざるを得ません。 聖霊の助けによって私たちが、神の望まれることを選ぶ事が出来るように、切に祈りましょう。 そうすれば、寂しさは決して私たちを襲う事がありません。 なぜなら、神の喜びがあっという間に私たちの心を満たし、その心から喜びが豊かに溢れ続けるのです。 アーメン。



          年間第29主日B年    20121021   グイノ・ジェラール神父

         イザヤ53,10-11  ヘブライ4,14-16  マルコ10,32-45

    イエスが耐え忍んだ試練と苦しみについて、今日の三つの朗読は語っています。 キリストはこの世を支配する為ではなく、私たちに仕える為にこの世に来ました。 私たちの為に私たちと共に、残念ですが度々私たちによって苦しみながら、イエスは神の慈しみと憐れみを啓示するために来ました。 神もイエスも永遠の罰や恐怖の脅しによって、全世界を支配しようとする全能者ではありません。 神もイエスも「柔和で謙遜である」から、私たちの不幸となっているものを全て背負いながら、私たちに永遠の幸せを与えようとします。

    上から神もイエスも世界を治めません、むしろ 死と悪のあらゆる形から私たちを解放する為に彼らは、私たちの日常生活と私たちの歴史を分かち合います。 罪と死の源であるサタンを支配することによって、神は私たちを解放します。神の栄光とは、人間のすぐ傍におられることです。 人間を滅ぼそうとするもの、或いは深く傷つける全てのものを、神が私たちと共に担い分かち合うことこそ 神の栄光です。 神の栄光とは、病気や死に対して私たちの味方となることです。

    ヤコブとヨハネのように「神の栄光のうちに座したい」人々は、神の恵みによって人々を傷つける全ての物事と戦うべきです。 それは不正、軽蔑、病気、罪と死などです。キリストの傍に座りたい人は、どうしても命を守るために全力を尽くさなければなりません。 言い換えれば、その人は神の似姿に造られた人間を醜くする物事に対して、抵抗しなければなりません。 アダムとエバは神のようになりたかった(創世記3,5)。 ヨハネとヤコブは弟子たちの中で、第一の席を狙っていました。 世の始めから人々にとって永続的な誘惑であった「神のようになりたい、偉くなりたい」という誘惑を、神が私たちの人生の目的に変化させました。 「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記11,45)と神は言われます。 「あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6,36)。 「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14,3)とイエスは加えて約束します。

    憐れみに溢れる聖なる生き方によって、神と共に居るということが、私たちの唯一の望みでなければなりません。 キリストのように柔和で謙遜であることは、私たちが毎日 努力しなければならない務めです。と言うのは、ヨハネとヤコブのようにキリストの傍に座ることを望むのは、結局二度と動きたくない事や自分が居を構える事です。 つまり、居座り方を保ちながら 休むことを示しているのです。 ところで、キリスト者は絶えず歩く人であり、絶え間なく戦っている人です。 キリスト者は、日ごとに諦めずに人々の世話をするために自分自身を尽くす人です。

    ヤコブとヨハネはピラミッド型の社会的なビジョンを持っていました。 彼らは自分たちをピラミッドの天辺に置いて他の弟子たちを皆その下に置こうとしました。 確かに、世界中で人間の努力が及ぶ社会階層では、出来るだけまで階段を一つずつ昇ることです。 かえって、神とその子イエスは反対の道を選びました。 ご自分を捨てて謙遜の一番下のレベルまで神もイエスも下りました。 全人類の僕として父なる神とキリストが自分自身を私たちの模範として見せるのです。

    確かに私たちは神のようになることが出来ます。 それは人々に自分の時間と命を与えながら、神のように創造出来る人と僕となることによってだけです。 しかし、私たちが 人々に仕えるからと言って、このやり方が自分自身の支配の見せかけにならないように気を付けましょう。  死を迎える数日前にイエスは自分の弟子たちに次のように言いました。 「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハネ16,7)。 神のようになることは、人の利益を求めることです。 イエスが自分の姿を消すことによって、何かを創造しました。 つまりイエスは何も無い空間や開いたスペースを残すことによって、私たちに相応しい場所を与えてくださいました。 これこそ神ご自身の場所でした。ですから、他の人々が自由に生きるように、私たちはどのように自分の目立つ姿を消すのでしょうか。 全ての場所を占領する仕え方はとても悪いです。 仕える人が謙遜に自分を捨てるとしたら、その仕え方はとても良いです。 これこそ、神のやり方です。 このユニークなやり方は、仕える人と仕えられる人をも活かすやり方です。 世界宣教の日が提案するよい方法は、それです。 アーメン。



           年間第30主日B年    20121028 グイノ・ジェラール神父

        エレミア31,7-9  ヘブライ5,1-6  マルコ10,46-52

    人々がイエスを見たいと望んでいることを、福音は度々述べています。 バルティマイという盲人をはじめ、エルサレムで巡礼を行っていたギリシャ人たちも(ヨハネ12,21)、また病に苦しむ人や数えきれない人々がイエスに付き従って来て、一目彼を見たい、出来ればイエスに触れたいと望んでいます。 事実私たちも盲人のバルティマイのような者です。 というのは、イエスは私たちの人生の旅路の直ぐ傍で歩んでいますが、私たちは彼が見えません。まして、彼と手をつなぐ事など出来ません。 度々私たちも次のように叫びたいです「主よ 見えるようにしてください! 主よ 聞こえるようにしてください!主よ あなたの方へ近寄れますように!」などと。

    23人がイエスの名によって集まっている時、イエスが彼らの直ぐ傍におられるという確信を私たちは持っています。 まして、イエスの言葉を聞くため、そして彼の御体と御血を頂くために ここに集まっている私たちの間に、どれ程キリストが現存しているかを!イエスの愛の力は、私たちの信仰に与えられている実際の答えです。 しかしイエスが私たちに「何をして欲しいのか?」と聞くために、私たちは自分の祈りを声高らかに叫ばなければなりません。 大抵の詩編がこの言葉から始まります「主よ 私はあなたに叫ぶ! 私の祈りの叫びを聞いてください!」。 150の詩編の中で「叫び」と「叫ぶ」という単語が67回出てきます。

    耳が聞こえなくなるかと思うほどやかましい世界に、私たちは生きています。 自分の声を聞かせるためには、叫ぶ事が必要です。 勿論、自分のために叫ぶだけではなく、他者の代わりに叫ぶ必要があります。 神に向かって、世界中で迫害されている兄弟姉妹のために叫びましょう。 特に社会が人々の叫びを揉み消そうとして、なんの助けも与えずに道端に見捨てられた人々のために叫びましょう。 神が御自分の教会に司祭を遣わすように、絶えず叫びましょう。 世界中で司祭の不在は悲劇的な状態になっています。 私たちの神への叫びを若者が聞いて彼らが、神の呼びかけに応える勇気を見いだすように、益々叫びましょう。

    信仰年に当たって私たちは、教会と共にもう一度、祈り方を学ばなければなりません。 それは自分の信仰を深めるためだけではなく、特に、私たちの日常生活の中に隠れている、キリストの現存を見分けるためです。 それは、私たちがキリストによって生きることが出来る為です。 砂漠に追放された預言者エレミアは、神に向かってイスラエルの民の苦しみを叫びます。 彼の叫びを聞いて人々は希望を取り戻しました。 なぜなら神が必ず彼らを救うとエレミアに約束されたからです。 バルティマイの叫びを聞いて、イエス御自身も大きな声で叫びました「あの男を呼んで連れて来なさい」。 こうして、バルティマイとイエスの叫びは一つの叫びになって、信仰と癒しを得ることが出来ました。 イエスの時代から脈々と続く教会の使命は、苦しみ叫んでいる人々を探し求めて、イエスの方へ連れて行くことです。 そうすることによって、神の前で絶えず執り成しているイエスが、私たちと一緒に声を合わせて叫ぶようになります。 世界に広がっている教会によって イエスは今日もまた、苦しみに叫ぶ人々を救うために来られます。 イエスは全ての人が救いの喜びを味わうように望んでいるからです。

    「ヤコブのために喜びの叫びをあげよ。 皆が声を響かせそして叫べ“主こそ御自分の民の救い主です!”」と。 預言者イザヤの預言を実現することによって、イエスは 私たちの「苦しみの叫び」を「喜びの叫び」に変化させます。 私たちは皆、世界の人々に向かって、神は誰一人も見捨てられないことを叫ばなければなりません。 人間の苦難を目にして、イエスの叫びが響き続けます「あの人々を呼んで連れて来なさい」。 神は御自分の前に、地上の全ての民を集めようとします。 しかし私たちは あまりにも神にまで人を連れて行く自信がないので、神は私たち一人ひとりを力づけるために「恐れることはない。私があなたと共にいて助け、あなたを救い出します」(エレミア15,20)と言う慰めと憐れみの言葉を残しています。

    「勇気を出して立ちなさい」とイエスは言われます。 ですから勇敢に立ち上がって、苦しんでいる兄弟姉妹を探しに行き、イエスの傍に連れて行きましょう。 私たちは救い主であるキリストにおける信仰によって、人を癒したり、人を救ったりする喜びの証しを世界の人々に与えましょう。 そうすれば体の回復を望んでいる人々が、キリストを見つけることが出来るでしょう。 詩編2227節が約束するように「主を探し求める人は満たされています」。従って満たされた人は、必ず聖母マリアと共に「救い主である神にあって、躍り上がって喜びの叫びを響かせるでしょう。」 アーメン。



       年間第31主日B年    2012114日    グイノ・ジェラール神父

         申命記6,2-6  ヘブライ人の手紙7,23-28 マルコ12,28-34

    私たちは皆 愛するように招かれています。 この唯一の目的を持って、神が私たちを造られましたから。 「私たちに与えられた聖霊によって神の愛が、私たちの心に注がれました」(ローマ5,5)。 しかし残念なことに、私たちの内にある自己愛が、私たちの心に神の愛が成長する事を妨げています。 自己愛が自分の弱さと一致する時、私たちは簡単に誘惑に負け、罪を犯すようになります。 しかし、神の赦しがいつも私たちにキリストの愛の力を溢れる程与えます。 幾ら罪が私たちを滅ぼすために増しても、それ以上に私たちを救う「神の恵みが、満ち溢れている」(ローマ5,20)という事を私たちはよく知っています。 確かに、キリストの十字架は世界の人々に、神の愛の力を啓示しました。 キリストの十字架は、死の淵の上を人々が安全に渡る大きな架け橋となりました。 ですからこれからは、自分たちの弱さにもかかわらず、私たちは恐れずに神のすぐ傍に近づく事が出来るのです。

    今、聞いたばかりの福音は分かり易いです。 しかしその教えに基づいて生きることは、とても難しいです。 ただ一つの質問を尋ねられたイエスは、律法学者に二つの答えを与えます。 即ち、一つの掟について律法学者がイエスに尋ねます。 イエスは二つの掟について答えます。 結局、最後に律法学者が、自分が問いかけた質問に自分自身で答えることになります。 そこでイエスは彼を称賛します。 律法学者の答えが、知恵に満ちて適切な答えだ、とイエスは断言します。 実際にこの律法学者はイエスに自分の心積りをよく明かしました。 彼はキリストを試すために、あるいは、罠に陥れる為に来たのではありません。 この律法学者は、心から神を探し求め、どうしても自分の信仰を養いたいという希望を持って キリストと出会いました。 実際この律法学者は、キリストに与えた答えの内容を既に生きている人です。 その為にイエスは、彼を「聖霊で生かされた人として」認め称賛されます。

    この律法学者が見事に一つの文章の中に違った二つの掟をまとめたので、この二つの掟が一致している事をよく表わしました。 心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、愛する事は神に捧げられた全ての生け贄よりも優れています。 この様に説明する律法学者は、イエスの人生の中心にあるものを悟っている事を示しています。 つまり、キリストの心を満たすもの、 それは先ず父なる神へのイエスの愛、 そして出会う全ての人に対するイエスが示す尊敬だと、律法学者はよく解りました。 また、律法学者がキリストのように生活を送るとしたら、自分が天の国の傍にいるよりも 天の国に完全にいるのほうが良いという事を悟りました。

    この律法学者と話してから数週間後に、イエスは自分の命を捨てる事になります。 確かに、命を与える事は生け贄であり、しかも最後の偉大な生け贄です。 十字架上でイエスは生け贄を捧げる司祭であり、同時に捧げられた生け贄となります。 自分の命を与える事によりイエスは世を救い、そして愛の二つの掟を実践します。 「地上から上げられるとき、イエスはすべての人を自分のもとへ引き寄せます」(ヨハネ12,32) 従って私たちは、ミサに与る度に消極的な目撃者として、或いは無言の証し人としての立場を保つ事が出来ません。 私たちの人生の中でキリストの救いを与える愛の業を再現する為に、私たちは特に聖体拝領によってキリストと一致しています。 キリストに対する私たちの忠実さによって 「イエスが、私たちを愛したように、互いに愛し合うこと」(ヨハネ13,34)を 私たちは学びます。

    神と隣人を愛することによって、私たちは愛の完成に辿り着くように招かれています。 示された愛によって、私たちは益々神の似姿に変容されているのです。 さて、幼きイエスの聖テレジアは、はっきりと単純に次のように宣言しました。「母なる教会の中心に私は愛となります」。 神と深く一致することによって、自分が愛そのものになる可能性があると、聖テレジアは考え悟りました。 「私の唯一の務めは、それはただ愛する事だけです」と彼女は言いました。 聖テレジアを真似て、心を尽くして、神を探し求めよとする人は、必ず自分のように 隣人を愛する力を聖霊からいただくのです。

     信仰年に当たって、私たちも聖テレジアのように「母なる教会の中心に愛となること」を望まなければなりません。 私たちが神によって造られたのは、神が私たちを愛しているように、私たちも愛することが出来る為です。 「私たちに与えられた聖霊によって 神の愛が、私たちの心に注がれました。」 ですから、心を尽くし、知恵を尽くし、信仰の力を尽くして愛しましょう。 神と隣人への二つの愛の掟を実際に実行する力と知恵の恵みを神に願いましょう。 そうすれば、お互いに愛する事が簡単に出来るでしょう。 これこそ、キリストが私たちに残したご自身の掟と遺言です。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟です」(ヨハネ15,12)。 アーメン。



         年間第32主日 B年      20121111日  グイノ・ジェラール神父

              列王上17,10-16  ヘブライ9,24-28   マルコ12,38-44

    イエスは非常に単純な人です。 彼は正しい眼差しを持って全てを見、言うべきことを言う、そしてしなければならないことを行う人です。 イエスは真理のうちに生きていて彼のうちに偽りがない。 イエスは真理であるからこそ、彼の現存は高慢な人や偽善者を困らせます、なぜならイエスは彼らが被っているお面を外しますから。 イエスの眼差しは外面的な姿に留まらずに、人の心を深く探ります。 実際、イエスは人々の本性を知っているので、人々の振る舞いの目的までをも見分けることが出来ます。

    イエスは神殿で賽銭箱の向かいに座っています。 つまり神殿の女性の場所の囲の中に置かれている13の賽銭箱に向かって座っています。 新しい神殿は未完成で建設を続ける為にもっとお金が必要です。 過越しの祭りの為にエルサレムに来た大勢の巡礼者は、献金で寄付します。 イエスはクジャクのように威張って歩く律法学者を見ます。また、ラッパの音に合わせて彼らの寄付が目立つように、たくさんのお金を捧げる金持ちも見ています。 しかし、生きる為に全てを与えた貧しいやもめに、イエスの眼差しが特に注がれています。 このやもめはレプト銅貨二枚を寄付して、神のみ手の中で、自分の人生を完全に捧げたからです。

    数日後、イエスは十字架に付けられるでしょう。 それを知っているイエスは、弟子たちに神に全てを与えたこのやもめを模範として見せることによって、自分が彼女のように神のみ手のうちに惜しみなくご自分を委ねることを理解させようとします。 この貧しいやもめの行いの中に、イエスは 近いうちに自分自身がなさることを見分けます。つまり、イエスは神に自分の命を捧げるのです。 大勢の人がやもめの目立たない行いに気が付きませんでしたが、キリストがご自分を捧げることが公になり、全ての人に知られることになるでしょう。 数日後、イエスは次のように言われます。 「わたしは自分の命を捨てるから父が私を愛して下さる。 誰もわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分でそれを与える」(ヨハネ10,17-18)。

    「命を与える」という言葉について考えましょう。 自分を捧げることは密かかであろうと、目立つことであろうと、血まみれであろうとなかろうと、問題になりません。 確かなことは、もし私たちがイエスの霊によって生きたいのなら、私たちは先ず自分の命を与える決意を持たなければなりません。 自分の命を与えることは、苦しみを引き寄せながら自然に行えることではありません。 その為に、キリストの愛の力とキリストのエネルギーが私たちを包むように、先ず私たちはイエスに自分自身を委ね、捧げる必要があります。

    福音のやもめは、もう一人のやもめのことを思い起こさせます。 それは第一朗読のサレプタのやもめです。 彼女は食べる物もなく、そして彼女の息子は死にかかっています。 しかし、彼女は二本の薪を拾って、食べ物を願っている見知らぬ人に残っている油と小麦粉を全て与えました。 このやもめは、自分の子がほんの少しでも生きる為に与えようとした一切れのパンを 預言者エリアに与えてしまいました。 飢え死にしそうなこのやもめは、自分と息子の命を救うよりもお客様の歓迎を大切にしました。 彼女は、生きる為に残っていたものを全て預言者エリアに与えました。 そのために、尽きることのない油と小麦粉の奇跡によって神は彼女とその息子の命を救います。 一番困った時に、もし誰かが私たちに何かを願うならば、いったい私たちはどんな風に反応するでしょうか?

    今日もまた、十字架の足元でもう一人のやもめのことを考えましょう。 サレプタのやもめは二本の薪、福音のやもめはレプトン銅貨二枚を与えました。マリアも二つのもの、即ち自分の体と心を尽くして、生きるために必要であったものを全て、即ち自分の子イエスを与えました。 日常生活の様々な捧げものによって、私たちはいつか自分の全てを与えることを学んでいます。しかし、自分の命を捨てる為に、キリストが与える希望と愛の絆によってキリストにしっかりと結ばれる必要があります。 私たちは神の愛の限りない力で包まれています。そしてキリストの復活の力が、私たちのうちにずっと働いています。 その為に、神の眼差しのもとに真理のうちに生きることが出来るので、私たちは決して見せかけの姿を示してはいけません。 もし、私たちが自分について人々は何を考えるか、或いはどのように人々は私たちの行いを判断するかについて心配するなら、私たちは行動する勇気を失うでしょう。 人の無理解と、正しくない判断に対して恐れるなら 私たちは麻痺の状態に陥って、愛すること、人の役に立つこと、即ち命を与えることや人を活かすことも出来ません。このような恐れは結局高慢と偽善の原因となります。

    むしろ愛はいつも謙遜、単純さ、平和の源です。 愛はありのままに相手を歓迎すること、そして自分もありのままに留まることを可能とします。 イエスのように真理のうちに生きてゆきましょう。 聖書のやもめたちのように、私たちの外面の行いが私たちの内面的な生き方の値打ちを表しますように。 そして、とにかく単純で平和のうちに主と共に憩いましょう。 アーメン。



            年間第33主日B年     20121118     グイノ・ジェラール神父

      ダニエル12,1-3   ヘブライ10,11-14  18   マルコ13,24-32

    太古の昔から、大災害を予言する人がいました。 この面で不幸と災いを告げる私たちの世代は全ての記録を越えています。 なぜならペテン師たちの声に合わせて 地球の様子を研究する科学者たちも、この世の終わりを予告しますから。 ある人にとって、マヤ文明のカレンダーによれば、世の終わりは今年の12月の23日に予定されています。 また、他の人々によると、宇宙人たちが今年の1221日に地球を侵略するそうです。 地球を脅かす死の危険について警告するために、モルモン教の人々や ものみの塔の人々が、私たちの家の戸を叩いて訪ねて来るでしょう。 しかしカトリック教会は そのような忠告をしません。 今年は「恐怖の年」ではなく「信仰の年」です。

    世の終わりについて語るイエスは、私たちが恐怖に震えるのを望みません。 むしろ、イエスは私たちのために 未来への希望と期待の扉を大きく開こうとします。 歴史の終末は幸せのうちに終わります。 なぜなら、キリストに贖われ、キリストと一致された全人類の未来は永遠の喜びですから。 私たちの心から全ての恐れを払うために、イエスは「いちじくの木」のたとえを語ります。 イエスが語るいちじくの木とは、収穫が終わった秋のイチジクの木ではなくて、春のイチジクの木です。 このいちじくの木は命に溢れ、その枝が柔らかくなり葉が伸びているので夏の収穫の約束を示しています。 イエスは収穫のために土に蒔かれて、のんびりと成長する一粒の麦の種について度々話しました。 イエスは御自分のたとえ話を通して、私たちの人生の中にゆっくりと通り過ぎる神の歩みを見分けるように誘います。 神はいつもゆっくりとご自分を啓示しますので、私たちはその神を待ち望むことを学ばなければなりません。

    そう言う訳で、ご自分の愛に私たちが留まるようにイエスは要求します。 しかしこの願いを実現するのはとても激しい闘いです。 それを理解するためにイエスは「ある世の終わり」について語ります。 それは、私たちの内にある「古い人の死」です。 この古い人の死が、私たちの人生の内にとんでもない大きな混乱と苦しみを起こすでしょう。 なぜなら、ご自分の住む場所を私たちの内にえようとする神の偉大さに直面して、虚栄心や高慢や利己主義などで満たされている私たちの思いや言葉や行いの態度が 強く揺さぶられているからです。 即ち、私たちの虚栄心と利己主義の星が天から落ち、高慢と偽善と自己愛のもろもろの力が揺り動かされるのです。 その時こそ、神の恵みが 完全に私たちを満たし、光り輝く新しい人へと私たちを変化させます。

    私たちの内にある神の現存について絶えず注意深くなるように、待降節の時期は私たちを助けます。 神の愛の神秘を説明するために、イエスはわざと 出産の神秘である、お母さんの胎内の神秘、即ち 母と子の驚くべき親密さのイメージを使います。 神のみ手で形づくられるままに、また、神との心の親密さに生きるように 私たちは招かれています。 神は津波のように全てのものを荒廃させたり、或いは、強い地震のように私たちを襲う事は、決してありません。 私たちが神に差し出す愛の内に、神は愛と柔和を持ってご自身を啓示します。 神を歓迎するためには、子供の誕生を待ち望んでいる母親の心を私たちの内に作らなければなりません。 私たちは待降節に入ろうとしています。 私たちのために生まれて来られるイエスを母親の心で、歓迎したいと思います。 これに関して「信仰年」は、自分たちの内に神の救いを受け留めるために貴重な助けです。

    もし、聖霊の助けによって私たちが、自分の内面的な生き方を発展させ、規則正しく祈り、信仰を養うなら、決して外面的な出来事の恐怖やいかにも起こりそうな実現性のある危険は、私たちを不安に陥れないでしょう。 人生の試練に直面して、耐え忍び、凛として立つためには、まず神の内にしっかりと留まり凛として立つことを学ばなければなりません。 多くの詩編は次のように絶えず繰り返します。 「神はわたしの人生の城壁です、わたしの依りどころ、わたしはだれも恐れない。 神はわたしの盾、わたしは誰をはばかろう?」

    “終わり”と言う単語には、2つの違った意味があります。それは「終末」と「目的」です。 私たちは永遠の幸せの内に神と一致することを目標としているので、全人類の歴史は終わりがありません。 私たちの歴史には意味があり、私たちの世界は破壊される為ではなく、完成され変容される目的を持っています。 キリストによって全てが、神の聖性の内に愛の完成に導かれるからです。 その時が来れば神の命の充満さは、罪と腐敗から開放された 私たちにも宇宙万物にも与えられるでしょう。

    ですから、世の終わりについての偽りの警告、予言された自然の災いを忘れて、ただ神の内だけに喜びましょう。 信仰年に当たって目を覚まして用意し、祈る事を要求するイエスの言葉に耳を傾けましょう(参照マルコ13,35)。 また罪のあらゆる形を退けて、互いに赦し合いましょう。 更に、自分の内に神を見つけその現存を味わうように、絶えず私たちの心を希望に向かって開きましょう。 「身を起こして、頭を上げましょう。私たちの救いが近いからです」(参照ルカ21,28)。 アーメン。


王であるキリストB年    20121125    グイノ・ジェラール神父

        ダニエル書7,13-14  黙示録1,5-8  ヨハネ18,33-37

    第一次世界大戦から数年後、「王であるキリスト」の祝日が決められました。 教皇ピオ十一世は、全体主義の危険性を非常に強く感じたからです。 彼は、ロシアのマルクス主義と共産党やイタリアとドイツのファシズムやフランスと日本のナショナリズムの危険性に対して、全人類に警告しました。 これらの危険なイデオロギーを反対するために「王であるキリスト」の祝日を定めました。 イデオロギーの目的とは、人間を奴隷化し支配することだ、と教皇ピオ十一世は、はっきりと説明しました。 イデオロギーは人間の基礎的な権利と自由をすべて奪います。 イデオロギーというものは、個人的な意志の無い人間、ロボットのように盲目的に従順に従う人間を作り出します。 確かに、イデオロギーの下に置かれた人々は、信じる権利や違った意見を表現する権利、全体主義やイデオロギーに対して反抗する権利、自発的に動く権利、許可なしに移動する権利を完全に失ってしまいます。 全体主義に対して反抗や非難する言葉を言えば、あっという間にその人は逮捕され、自分の持ち物全部を失い、洗脳され、或いは死刑になることもあります。

    むしろ、王であるキリストが示す支配は、全ての人に偉大な自由を与え、一人ひとりの自主性を尊敬します。 全ての人が自由を味わいながら、自分の才能を発揮する事をイエスは望んでいます。 他の人に幸せを与える個人的な計画の実現によって、人が成長する事が出来るようにキリストは切望しています。 そのため人間を奴隷化して神の救いの計画に逆らっている全体主義をキリストの愛が強く非難します。

    イエスは宇宙万物の王です。しかし、私たち一人ひとりの内に住んでおられますから宮殿を必要としません。 イエスは私たちの心の内の全てを支配します。 ご自分の愛が 私たちの日常生活の困難な中で勝利をもたらし、喜びの泉となるように王であるイエスは希望しています。 私たちは信仰を宣言しながら、世界に向かって救いの希望を表わす事で、キリストの王国を自分の中に受けとめるのです。 イエスの王国とは、平和、愛、分かち合い、感謝の王国です。

    イエスが私たちをあがなって救ったのは、私たちが彼の遺産となるためです。 イエスの愛は私たちの命の内に、永遠の勝利をもたらしました。 柔和で謙遜なイエスは、王として全ての暴力を破壊し、私たちが彼と共に愛と平和を築く人となるように教えます。 しかし、イエスは罪人の王国の王でもあります。 そのために私たちはイエスの憐れみの眼差しの下に留まる事と、絶えずイエスの赦しを願う事も学ばなければなりません。 そうすれば、私たち自身も憐れみ深い人となって、他の人を直ぐに赦せる人となるでしょう。 確かにイエスは、互いに愛し合い、赦し合い、助け合い、そして正義と真理のうちに平和を共に築く兄弟姉妹の王国の王です。

    イエスと同じ様に「私たちはこの世にいますが、この世に属していません」(ヨハネ15,19)。 私たちがこの世にいる理由は、イエスの王国を来させるためです。 イエスと同じ様に真理の証し人として、神の国の到来を妨げるものや人間を圧迫する全てのものを、強く非難する使命と責任を持っています。 神ご自身が絶えず悪と戦っておられるので、私たちも神と共に戦う義務があります。 悪に対する絶え間ない戦いのために、聖霊を保護者として私たちに与えられています。 聖霊は神の武具を私たちの身に着けました。 私たちは真理を帯とし、正義を胸当てとし、福音の知らせを履物として身に着け、信仰を盾とし、救いをかぶととし、神の言葉を剣とするなら、安全にサタンの攻撃に抵抗する事が出来、サタンに打ち勝つことが出来ます(参照エフェソ6,13-17)。

     悪と罪と死に打ち勝ったイエスは、真に宇宙万物の王です。 私たちはイエスの勝利に与っているからこそ、イエスの親しい友として胸を張って誇れるのです。 この勝利はキリストの受難の結果である事を思い起こさせるために、今日の福音はイエスが受けた裁判と死刑の宣告について、黙想するように勧めます。 キリストの生涯の悲劇的な受難の出来事によって、なぜイエスが宇宙万物の王であるかを私たちは理解できるからです。 信仰年に当たって、十字架を仰ぎ見て、十字架が啓示する様々の神秘について黙想しましょう。 これらの神秘とは、父なる神の愛、罪の赦し、世の救い、復活、聖霊の賜物、教会の誕生などです。 ご自分の聖性と憐れみの充満さをもって宇宙万物の王であるイエスが 、私たちの心を支配しその心に留まりますように。 アーメン。

                   これからはC年になります



                     
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